金城楼

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浅野川年代記

橋場町、尾張町、並木町、主計町、東山など、浅野川界隈は金沢の古き情緒を今に残している。
橋場町にある料亭・金城樓が創業百周年を迎えたのを機に、この料亭の歴史を一つの足がかりとして、浅野川の流れをさかのぼるようにゆったりと界隈の歴史をたどってみる。


料亭料理と献立

金沢の料亭料理は、明治20年頃から現在の形になったといわれている。その母体は、藩政期以来の武家や商家で作られていた饗蔵のものを用い、料理については出入りの魚屋や八百屋などから取り寄せたり、仕出屋に注文したりすることが多かった。そのため、料理屋を使用する事が少なかった。
また、使用する場合でも、大人数の宴会を行うためであったから、料理の献立は、自宅で行う饗応料理とさほど変わらなかった。

金城樓の「鰻巻き」

春夏秋冬の移り変わりがはっきりとわかり、その季節ごとの材料が豊富な金沢では、年中行事ごとの献立が用意された。
まず正月料理である。「雑煮」小蓋に「柑子・蓮根・板付はんぺん・早柚餅子・胡桃煮・ひじき巻の芋」などを盛り、「数の子、棒鱈、煮豆、なまこ、海鼠腸、搗栗、かぶらずし」を添える。祭礼には、「五種の子蓋、ひらめの刺身、鯛・かれいなどの焼物、鯛の吸物」で、盆には、「奴豆腐、どじょうの蒲焼、冷麦麺、削りいなだ」である。次に報恩講や十夜には、「くわいのけしたき、葉巻牛蒡、なすのいとこ煮」、膳部には「ひろずの平、紅白くずきりの向、胡麻いりの猪口、豆腐の小豆汁」などである。


松島屋帳六さん

セピア色の写真から

「この芸妓さん、いまの松島屋の女将さんでないやろか」。一枚の芸妓さんの写真を見て、魚屋の奥さんはこうつぶやく。
右の写真は、魚屋の奥さんが言う通り、可祝さんの十八の時のものだった。
写真に写っている色紋付は火災で焼失したが、帯は屏風に表装されていまも使われている。
「お茶屋で遊ぶ」と言うが「お茶屋で飲む」とは言わない。酒も飲むだろうが遊ぶために飲む。そこがお茶屋と飲み屋のちがいだろう。芸妓さんをはべらせて弾き語りで自分も歌う。お茶屋遊びとは粋な遊びである。当時、芸妓さんたちから得る巷の情報は、いまのテレビの情報のようにナウイもので、社交界の欠かせない共通の話題でもあった。

天神橋(『卯辰山開拓図絵』)

浅野川にかかる橋

浅野川界隈は、情緒豊かな昔の金沢が一番よく残っている所といわれ、「女川」という俗称だが、おだやかなこの川の流れをよく示している。その際、女性的なこの川の風情を高める役割を、界隈に架かるいくつかの橋ははたしているといえよう。

浅野川大橋(『金沢名所』)

「浅野川大橋」は古くは轟の橋ともいい、文禄3年(1594)前田利家によって最初に架けられた。藩政時代、東・北方面から城下へ入る主たる関門で、犀川大橋と同様、橋番が橋の管理と通行人の取り調べにあたっていた。
卯辰山の表玄関「天神橋」は、慶応3年(1867)最後の藩主前田慶寧が卯辰山を開拓して養生所を開いたとき、それまでの仮橋に変わって新たに架けられた。橋の名は、卯辰山の頂上に天神を祭った社があったことに由来す。はじめ甦橋と命名されたが、いつのまにか天神橋といわれるようになった。


梅の橋(上) 中の橋(下)

浅野川大橋と天神橋との間に架かる「梅の橋」は、並木町から御徒町(現東山)へ向けて架設された橋である。かつてはこの橋を渡って郭へとかよったという。明治43年(1910)6月に架けられており、工事費のほとんどは、才田幸次郎ら地元有志の寄付によるものだった。鏡花が大正6年(1917)に発表した『卯辰新地』には、梅の橋のことが「京の四条の団粟橋になぞらえたと云ふ、近頃かかった夜目にも新しい小橋」と表現されている。

「中の橋」は、かつて母衣町から東馬場町に通じる一文橋(勧進橋)で、天保年間から主計町の酒井家が所有していた。町奉行に冥加銭を収めて賃取橋の許可を得、以後80年に亙り営業を続けてきたものである。しかし、明治42年(1909)同所に中の橋が新築されると、取り壊しの憂き目を見ることになり、当主信吉は市に救済を願い出たという。

昔語り・金城樓 土屋久美「金城樓老女将」

土屋九兵衛のこと

土屋九兵衛(前列左の座っている人物)

九兵衛さんが最初に修行をなさったところが「鍔甚」さんで、前後ははっきりしませんのですけど、金城樓をつくったときの一番先の資本は、蜆を売ったり、泥鰌を売ったり、それからこれはアイディア商品の一つだったと思うんですけど、伏見川で花見があって、夏は夕涼みの船遊びがありましたでしょ。あの時分、どこかで古い蚊帳を買って、自分が一生懸命になって蛍を採って、その蚊帳の中で蛍を離して、そして一匹いくらで売ったりして、この金城樓をつくったという話は聞いてるんです。

鍔福の大福帳

しかも九兵衛さんという人は、アイディアマンだけでなく、ものすごくものを大切にするし、今でいうとすごくテレパシーが強かったというか。支那事変が始まりましたでしょ。その頃は、勝ち戦さ、勝ち戦さで、物資が不足するなんてことは私たち小さいですし、思いもしなかったですけど、九兵衛さんは、これからひどい戦争になる、物資がなくなる、鉄がなくなるといって、今でも覚えていますけれど、ここの不二庵を建てましたときに、工事場や作業場に、大工さんが釘を粗末にして、その辺に散らばしておきますでしょ。その釘を一本一本拾うてね。こんなトロ箱に何十杯かありましたわ。そして、いつか鉄が不足するから、これはきっと役に立つとおっしゃられて。


創業の頃

九兵衛さんは、今の「みやぼ」さんの場所で最初、商売をするのになってたんですけれど、その頃の話だと、やはり「鍔甚」さんに近いし、主筋にあたる方に失礼やと、あちらさんが犀川口なら、こちらは浅野川口で商売させてもらおうと、一番先に、この上の田中富士夫さんのところね。不破病院のところで「鍔福」という名前で商売したんだそうです。
その時分は日露戦争の頃で、すごく景気が良くて、私の父がいってましたが、商売をしたときには、十人前ほどの道具しか揃えられなかったそうです。お客さんが十人ほどおいでになればいいと思っていた仕事が、とにかく開店した明くる日がものすごい人だったそうで、九兵衛さんは座布団がないものであっち行って借り、こっち行って借りして商売しましたって。
そして、前田対馬守の末裔の屋敷が、ここの金城楼の土地にあったんですが、尾小屋鉱山の何かで没落して、家を買ってほしいということで、ここに移って商売させてもらったんです。
金城樓という名前は、ここに来てからですから、明治二十三年。金沢霊沢からとったと聞いてます。

浅野川界隈の芸事

主計町

浅野川大橋から下流の左岸に、木造2、3階建ての家並みが続く。尾張町の一部になった旧主計町の茶屋街である。格子戸が風情を感じさせる。現在、茶屋は10軒足らずで芸妓も15人程度になったが、昭和初期の最盛期には60軒を数え、芸妓も100人以上はいた。そこにいる芸妓たちは「芸事のプロ、とにかく上手になりたい」という心意気は、今も昔も変わらない。

芸妓にとって、芸事を披露することは当然のことだが、中でも名誉なことは料理屋からの指名であった。今でも宴会や結婚式に呼ばれることがあるが、昭和初期には金城楼でよく結婚式が行われた。この座敷から「お声がかかる」ことは、芸妓冥利に尽きたという。それは、金城樓で結婚式を挙げると、その夫婦は円満に行くと言われていたからであった。縁起をかつぐこの世界では当然のことであった。


また、最近ではほとんどなくなってしまったが、節分の日には芸妓は寸劇を行った。茶屋ではもちろんだが、料理屋にも寄ばれることがあった。出し物は「野崎参り」や「三島の白梅」などが多かったそうである。若い芸妓はふけ役を、年増の芸妓は若い娘の役をと、芸妓たちも自ら楽しんでいた。


芸事の披露の場はこれらの他にもあった。戦後GHQに接収された東演舞場や尾山倶楽部がそれである。尾山倶楽部は金沢を代表する娯楽の殿堂であったが、ここでは「此花をどり」が行われた。これは京都の「都をどり」の小型版であり、市民を大いに楽しませたものであった。

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